移動、移動、移動


空間と空間を移動しているときに、脳味噌が何か機能して、もしくは運動を開始して、いつもとは違う動き方なぞしているようだ。あの車や電車や、といった、移動物体の内部から外側を眺め見るときの、窓越しの、少し曇った、ぼやけている窓を通過して、視線が、向かう先にある景色という情景に、流れさる面影に。

感激でもなくて、興奮でもない。

幻覚ではないし、学校でもない。

キャラメルを舐めていないし。

僕は元気だ。



そうだ。移動ということに、そのことに奇妙な何らかの息切れのような、眩暈(めまい)という感触を、睡眠導入に突入するときの、そんな移動性に関する一連の不思議。「帰れない」「帰りたい」「止まらない」「止まれない」乖離しそうなギクシャクした感情線をどうしようと、やり場のない。

戻らないという、当然の用件を。

戻れないという、強い否定も。

帰りたい、という願望を粉砕してしまうから。

そこにある時間性の犠牲に。

吊るし上げに。

さようなら。

移動、移動、移動、車窓、車窓、車窓。



まるでなってないんだと、責めたりもするかもしれません。どこに、通過したという引っかき傷が残るというのでしょう。「そこ」という確証などなく。たゆたうようにしか、ココのソコ、ソコのココの揺りかごに揺られているという、日差しのきつい午後の、簡単に登れそうな丘に、打ち寄せる白い帯状の延々と続く海岸線に、ああ、気がつかない振りをしておりました。

移動します。移動します。移動しているのです。

ソコはココでした。

ココはソコなのでした。

であってもソコはココではないし、もちろんソコではないのです。

裏側にココもソコではないし、ココではありません。

ココ、ソコ、ココ、ドコ。

天井に穴を開けて、屋根の上に昇り。

感嘆の叫びをあげましょう。