ちぎれた間
5Fくらいのマンションを半分にちぎる。
そこに通路ができてて、螺旋階段が真ん中にあって。
白っぽい緑の蛍光灯がぼんやりと照らしている。
空手かなにかの道場や、
地域の塾がガラス張りのスペースを使っております。
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線路を越えて、ちぎれた間をテクテクと歩くと、
足音が反響して(それもとても小さな音で)、
これまでとは違う感覚になる。
なんかトンネルみたいな、
入り口と出口で違うとこへ連れてってくれるような。
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ようやく、夕飯の食材を買うのだという気持ちに近づく。
夕飯の時間じゃないくらい深い夜だから、食料の買出しかな。
24時間のスーパーは客がまったくおらず、
今日の始末と次の日の準備で、
ひとが淡々と作業をしている。
お客は自分ひとりだけ。
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100円で買える食材がたくさんある。
火を通したり、水を使ったりすれば、
おいしい食べ物になってくれる。
文句も言わずに食べられてくれる。
すごいもんだ。
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お墓参りについて深沢七郎がつげ義春との対談でおしゃべりしてる。
つげ あれは理屈抜きなんですね。何も信心なんかふだんしていないですけど、そういうところに行くと、お線香あげるといい気持ちですね。
深沢 お線香あげるのは仏さんにあげるんじゃない、自分にあげるんだってね。花だって自分のほうを向いてあげるんだからね。それは坊さんに聞いたら、そうだといったね。それは自分にあげるんで、仏さんにあげたって食やしない、結局は自分にあげるんだから、自分に向けてあげる。大体仏さんの字がみんなこっちを向いているんだからね。
(「生き難い世に生きる」より)
こういう素朴な感受性って、だんだん削れていってしまう。
素朴とか基本とか。
そのまま、を、そのまま伝えるとか聞くとかいうこと。
大切・重要じゃなくて、ニュアンスとして。
どう感じたっていいし、どう考えてもいいはずなのに。
くだらない質問ばかりでいいじゃない。
うん。