写真のふたり

この写真(自分のTumblrにもポスト)。

あまりに気に入ったので、こっちでも残しておこうと。

本当に好きでたまらない。

撮影したひとは誰なんだろう?リンクが死んでしまってる。

Tumblrはじめてから、写真を沢山見るようになった。

中でもこれは殿堂入りの写真です。



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写真て何だろう、とTumblrをはじめてから考えている。

けれど、言葉では尽くせない。

というか、そうやって表現する能力が無い。


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足りない言語を使ってみれば、ただ、ドラえもんハットリくんのお面を被った少女らしきふたりが、なんでもない場所に立っているだけの写真。

何の面白さも感じられない。

あせた色合い、マットな質感、斜めに入る影のライン。

多分、お面を被っていなくても好きな写真だと思う。

けど、被っているから圧倒的に面白いとも思う。


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感情の欠如。

お面の下にある彼女らの表情は隠れていて見えない。

そこに空白がある。

空白の感情。

けれど、胴体や手足、は見える。

両手を前で軽く合わせているピンクのトレーナーの女の子。

すそをぴっちりズボンにしまい込んで、直立するピンクスニーカーの女の子。

そこから読み取れそうな表情、性格。

空白を埋めさせるヒントの提供。

面白いんだ、と、思うのかもしれない。そういう部分が残されてる。


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椹木野衣が写真は「死のメディア」であるという。

写真を撮るわたし(P)と、カメラの機械(C)と、撮られる世界(W)。

PとC、PとW、というわたしを介在した関係性よりも、カメラと世界の関係性、

CとW

が本質的な写真のもっている意味だ、と。

そこにわたしという主体はさほど重要ではない。

顕著な例として、こういう衛星からとった写真

衛星が遠隔的に、「ただ」撮った写真。

けど、いいなと感じてTumblrにポストしたんやな、と。

主体であるわたしは最早、存在しない。

例えば、この犬の写真

これなんか単純に撮られた犬、なんとものっぺりとした感触、色あせた。

そういう写真そのものの単なる魅力だけで、いいな、と。

CとWが全面にでてると思う。


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再度、この写真を見る。ほんとにそれだけかな。

ドラえもんハットリくんの写真を見て、彼女らを撮っているのはお母さんだろうなあ、と思った。

それは、撮るお母さんの意志を見たともいえる。

わたしと撮られている二人の子供との関係性を、推測して楽しいと感じる。

PとW

が、面白いと感じさせる一要素となっている気がする。

絶対的にCとWが持っている、つまり、写真そのものの面白さ、は見ただけで「好きだ」と思わせる強さと直結している。

けれど、その後から来るPとWの関係性が重層的に、この写真をさらに面白いと思わせる。


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たとえ、リチャード・プリンスによって複製されたとしても、フレームの外に居るお母さんは存在してると思う。

でも、きっとリチャード・プリンスはこういう写真は意図的に排除してる。

際立った、透明で無味乾燥な死んだ写真。

死体は冷たい。動かない。

クール。とか、そういう魔術がある。


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だけど、フレームの外のお母さんが、ぼくはとても気になる。

お母さんは生きている。

そういう意味で、写真は死んでない。

梅佳代とかは、なんかPとWを感じさせるのがとっても上手なんだと思う。

生きてる写真なんだと思う。

だから、明るい、楽しい、嬉しい、とか、なんか、感情を。

はみ出すものがある。

そういう感じで、ieganaiの写真も面白がることができると思う。


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もちろん、写真の不思議さ面白さは、もっと沢山の要素から成り立ってるんだろうなと。

幻想かもしれないけど。

どうなんだろうか。

フォトグラフ。