どこかでだれもがいちどは

絶海の孤島

という、どこかでだれもがいちどは聞いた

哀しい

という、どこかでだれもがいちどは感じた

大空を飛ぶ鳥たち

眼球でつかまえた


  ●


そんな、どこでもなく

だれでもなく

いちどもない

なんて、


  ●


タイポグラフィ

という、どこかでだれもがいちどは知った

深海

のことは、まだよくわかっていないのだという

結論

すべては、すべてにいつまでもならない


  ●


一部分を、断片を、フラグメントを

掻き集めた集合体

ちいさなちいさな世界

わたし

歓喜

歓喜

「ここ」に「ここ」があるかと思ったら、

すぐに

「ここ」は「ここ」から逃げて行く


  ●


ピエロ

という、どこかでだれもがいちどは道化た

キャタピラ

という、どこかでだれもがいちどは死んだ

この中に

なにがある


  ●


透明

浸透

フィギュアを買った

この1,2週間のあいだにいわゆる「フィギュア」を立て続けに購入した。

斜めに構えて、キモいと突き放す潔さもないし、積極的に萌える気力もない。

のくせ、額装した「フィギュア」から、ケースから取り出したフィギュアになってしまった。

今、目の前にあるフィギュアたち。


  ●


きっかけは、NHKの特集番組を見てしまったことに一端があると思うのです。

海洋堂というフィギュアを沢山つくってる会社を知った。

そんで、そこには原型師というひとがいるってことも。

ボーメという原型師のおじさんがクローズアップされてて、求道者のように朝から晩まで美少女キャラクターのフィギュアを作っていた。

なんというか、ボーメさんはただひたすらフィギュアを作ってた。

ただ黙々と手を、動かしてた。

ミケランジェロだかの彫刻の写真を傍らに置いて、

「こんな風に服の襞(ひだ)を表現したい」

本気の人間がおるで!

ここに本気の人間が!


  ●


えーとですねボーメさん。

わたしはあなたに萌えました。


  ●


むちゃくちゃ高揚したこの気分を滅却すべく、フィギュアを一体買ってみるかと。

そういうね、気分にさせられたというか、なったのです。

同時にフィギュアって何なんだ?知りたい、とも。

美少女フィギュアはもともと紙の中の平面に描かれたキャラクターを立体化したもの。

大きな瞳、非現実的な髪型や服装。

非現実を現実に近い形で表現する方法として。

フィギュアが存在する奇妙さ、ある不気味さ、そしてフィギュアを取り巻く群像。

秋葉原を聖地としたお祭り騒ぎのイコン=フィギュア。

キモい。

そういう文脈で避けてしまう存在。


  ●


例えば、このフィギュアが目の前に置いてあるとして。

そして、普段の暮らしがあるとする。

造型としての素晴しさを見るのではない。

大きな胸と、露出した肌、均整の取れた理想的な肢体。

デフォルメされた瞳。

そういうところを見る。

エロの部分が最初に決まってる。

もうね、これが日常の景観にあれば、変態、キモいわけです。

グロもそう。日が差してはいけない、道徳的に、と。

エログロは間違いなく日陰者、細々と。


  ●


そこに全身全霊なんです。

人生を賭けて社会的キモさを受け入れて、それでも「好き」だ!と。

「立体にして手に持ちたい、見たいと思った」(ボーメ、某インタビュー

鳥肌が立ちました。

かっこいい。

「今のゴジラはあかん。ゴジラのほんまの色がどうの、顔の形がどうの。そんなんとちゃうんや。井上工房の2メートルのゴジラは、そんなセコいもんとちゃう。井上くんのイメージのゴジラなんやから。色もそうや。ゴジラのイメージは燃えさかる紅蓮の炎や。そやからゴジラは赤く塗る。これがアートや!」

海洋堂の創業者が語った言葉らしいんだけど。

もうね。

熱、熱気、火傷ですほんと。

フィギュアやっべー!!!!

ってなるやん、そんなん。

オタク学入門 (新潮文庫 (お-71-1))

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  ●


この凄い熱気を感じながらも、やはり対象はエログロである。

慎重に行きたいと、足踏みしました。

自分としては、身体の造型と顔があまりにかけ離れているような気がしてしまったからです。

なんだか矛盾を感じてしまう。

理想は良いのだけれど、理想的過ぎやしないか、と。

マリアがキリストの亡骸を抱えるピエタ

ミケランジェロの造型だという。

1500年前後に完成したといわれるこの立体も、理想像であるに違いない。

あるいは信仰の象徴としての崇高な存在。垂直的なもの。

けれど、圧倒的なその説得力はなんだろう。

芸術ここに極まれり、言い過ぎではない。

理想としての造形が、矛盾や違和感を超えて訴えかけるもの。

見えない圧倒的なものに固唾を呑むのだと思う。

そこに芸術が在るのではないか。


  ●


それでも同じくらい感動させられたんだ。

フィギュアに。本当に。

払拭できない違和感、突き抜けられない理想。

理屈じゃないものが大衆を魅了する現実。

それで芸術(アート)や!赤い色に燃えさかった紅蓮の炎や!

何をアートと感じるか。何に赤い炎を見るか。

それは個人の自由だし、未来が決めるという要素もある。

フィギュアに赤い炎を見たことなんて初めてだった。

そういう目線(価値観でもいい)でフィギュアを、美少女フィギュアを見られるようになるとは想像もしなかったことだ。


  ●


そういう個人的な燃え(萌え)が確認できて、嬉しかった。

そして様々なフィギュアを調べていくうちに吉沢光正の造型を知った。

そのフィギュアには肢体と顔に感じた違和感、矛盾みたいなものが無かった。

想像上の神を立体化したミケランジェロと同質の均整を感じた。


  ●


吉沢光正は山下しゅんやのこの一枚のイラストから、立体を産み出す。

見えない背中、たった一枚の紙に描かれた美少女のイラストが。
















結晶化して浮き上がっている。

めちゃめちゃすげぇ。

燃え盛ってる!



  ●


そういうわけで、吉沢光正のフィギュアを物凄い勢いで購入したし、

これからも購入し続けようとかたく決意したんです。

綾波レイ、セラちゃん、イノ、リリスキャミィ、のんのん、ポイズン所有。

あー、キモっ!!!!(肯定的に)

概念を生み出すということ

南部陽一郎ノーベル賞を受賞した。

しかも理論で、だ。すごい。すごいとしか言えない。

小柴昌俊のときは、実験物理での受賞で、巨大なカミオカンデの映像を見て、ビッグ・サイエンスになってきたと感じた。

泥臭い実験のなかからごく微量のものを見つけること。

あれから、5年以上。

もう理論は死んだ、とか思ってたけれど。

教養課程で物理を大学で勉強していて、一般相対論まで修めたが、結局素粒子は勉強する直前で専門課程に移ってしまった。

それでも、南部陽一郎の名前は知っている。


  ●


自発的対称性の破れ(spontaneous symmetry breaking)について:

「場の基底状態に作用またはハミルトニアンを不変に保つような対称性があり、そのうち自然が無作為にある状態(真空)のみをとることで真空の対称性が壊れる現象やその過程を指す。」(Wikipedia

なんのこっちゃ、である。

自然(時空)はもともと対称ではない、といっているのか?

そこで、ブルーバックスの『クォーク(素粒子物理の最前線)』(南部陽一郎、1981)の17章「対称性の自然破綻」を読むことにした。


  ●


「テーブルのまん中にりんごが上向きに置いてあっても、それを下向きにした状態や、別の場所に移した状態も原理的には可能であり、りんごの性質が変わるとは考えられない。」

「異なった向きの球などと言うことは無意味であるが、異なった場所に置けば区別される。」

対称性が増えると、対象操作を施しても変化しなくなる。ということを述べている。

そして、「真空」に関する記述。

「ところが完全な真空、すなわち物質が何もない時空はどんな対称操作を施しても変わらないと考えられる。だから真空はただ一個しかなく、その中に物質をつめこむことによって、初めて多様性が生まれると同時にエネルギーも高くなる。」


  ●


これが「場の量子論」という物理学で定義される真空だという。ポイントは2つの仮定:


・エネルギーが最低の状態(1)

・対称操作に対して不変(2)


である。何となく当たり前、不思議な点はない。

こういう常識を最低限度の仮定として出発するから、物理学はハード・サイエンスと呼ばれるのだろう。

この普遍的(と考えられている)仮定疑うことは容易ではない。

まして、その疑いを概念として提出し、数式化するなどという作業は想像を絶する。

ここにこそ理論物理の真骨頂があると思う。


  ●


さて、自明と思える真空の仮定だが、南部陽一郎は「自明ではない」と言う。

永久磁石をつくれる鉄やニッケルといった金属(強磁性体)を例に取り、説明する。

なんで磁性(磁石としての強さ)が強いのか?

それは金属原子が

S→N

の向きにすべてそろったときが最も安定となるからだ。と。


  ●


対称性の観点からみると、強磁性体の一方向のみの世界は変だ。

エネルギー的には最も安定なのに、である。

これは真空の仮定(2)を否定する。

「われわれは一つの特定の向きをもつ世界に生き、その局所的な秩序の乱れだけを物理現象として観測できる」と。

これが、対称性の「自発的な破れ」なんだそうだ。

まだ、いまいち分からないが、Wikipediaの記述よりは分かった気がする。

南部陽一郎は、ここにきて、自発的な破れの説明としてサラムという物理学者の比喩を紹介している。

鈴木吉男のカットとともに。


  ●

「宴会が開かれていて、大きい円いテーブルのまわりに多勢の客がぎっしり着席している。各々の席の前には皿、ナイフ、フォーク、ナプキンなどのセットがきちんと置いてあるが、隣の席との間隔が狭いので、どちら側のナプキンが自分に属するのかわからぬほど左右対称である。実際どちらを取ってもかまわぬはずだが、誰か一人が右側のナプキンを取り上げれば他の客もそれにならっていっせいに右のを取らねばならなくなり、とたんに対称性が自発的に破れてしまうのである。」


  ●


自明と思われていた真空の対称性に異議を申し立て、新たな一般原理になったわけで。

それはものすごいことだ。

神の視点といっても決して大袈裟ではないと思う。

そういう枠組みへの挑戦に対する評価。

机上で世界を変えることの凄さ。

遅すぎた評価だったと思う。

しかも、今回のノーベル物理学賞はすべて日本人だということ。

つまり素粒子の分野は日本が創り出したといっても過言ではない。

この受賞は世界がそう認識しているという証明だ。


  ●


「自然は対称とは限らない」(南部陽一郎


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「先生は論語の「学而不思則罔。思而不学則殆。」(学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し)を研究のモットーとしておられるそうです。」(KEKニュース

これもいいなあと思った。

考えるだけでも、実験するだけでもだめ。

いろいろなことにたとえられるだろうけど。

バランスということ。

けれど、南部陽一郎自身は対称性というバランスを破ったんだ。

かっこいい。


  ●


蛇足だが、テレビの取材で共同受賞者の益川敏英の発言が冷静だった。

「今回評価された内容は、20年、30年前に出ている結論だ。そのことでノーベル賞を取っているだけで、現在の日本の科学水準が高いということは出来ない。」

これは、まさにその通りだと思った。

ひとつ、思ったのは、今回のノーベル賞で科学に活気が出ることは期待できると思う。

それも基礎科学(ハード・サイエンス)に。

写真のふたり

この写真(自分のTumblrにもポスト)。

あまりに気に入ったので、こっちでも残しておこうと。

本当に好きでたまらない。

撮影したひとは誰なんだろう?リンクが死んでしまってる。

Tumblrはじめてから、写真を沢山見るようになった。

中でもこれは殿堂入りの写真です。



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写真て何だろう、とTumblrをはじめてから考えている。

けれど、言葉では尽くせない。

というか、そうやって表現する能力が無い。


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足りない言語を使ってみれば、ただ、ドラえもんハットリくんのお面を被った少女らしきふたりが、なんでもない場所に立っているだけの写真。

何の面白さも感じられない。

あせた色合い、マットな質感、斜めに入る影のライン。

多分、お面を被っていなくても好きな写真だと思う。

けど、被っているから圧倒的に面白いとも思う。


  ●


感情の欠如。

お面の下にある彼女らの表情は隠れていて見えない。

そこに空白がある。

空白の感情。

けれど、胴体や手足、は見える。

両手を前で軽く合わせているピンクのトレーナーの女の子。

すそをぴっちりズボンにしまい込んで、直立するピンクスニーカーの女の子。

そこから読み取れそうな表情、性格。

空白を埋めさせるヒントの提供。

面白いんだ、と、思うのかもしれない。そういう部分が残されてる。


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椹木野衣が写真は「死のメディア」であるという。

写真を撮るわたし(P)と、カメラの機械(C)と、撮られる世界(W)。

PとC、PとW、というわたしを介在した関係性よりも、カメラと世界の関係性、

CとW

が本質的な写真のもっている意味だ、と。

そこにわたしという主体はさほど重要ではない。

顕著な例として、こういう衛星からとった写真

衛星が遠隔的に、「ただ」撮った写真。

けど、いいなと感じてTumblrにポストしたんやな、と。

主体であるわたしは最早、存在しない。

例えば、この犬の写真

これなんか単純に撮られた犬、なんとものっぺりとした感触、色あせた。

そういう写真そのものの単なる魅力だけで、いいな、と。

CとWが全面にでてると思う。


  ●


再度、この写真を見る。ほんとにそれだけかな。

ドラえもんハットリくんの写真を見て、彼女らを撮っているのはお母さんだろうなあ、と思った。

それは、撮るお母さんの意志を見たともいえる。

わたしと撮られている二人の子供との関係性を、推測して楽しいと感じる。

PとW

が、面白いと感じさせる一要素となっている気がする。

絶対的にCとWが持っている、つまり、写真そのものの面白さ、は見ただけで「好きだ」と思わせる強さと直結している。

けれど、その後から来るPとWの関係性が重層的に、この写真をさらに面白いと思わせる。


  ●


たとえ、リチャード・プリンスによって複製されたとしても、フレームの外に居るお母さんは存在してると思う。

でも、きっとリチャード・プリンスはこういう写真は意図的に排除してる。

際立った、透明で無味乾燥な死んだ写真。

死体は冷たい。動かない。

クール。とか、そういう魔術がある。


  ●


だけど、フレームの外のお母さんが、ぼくはとても気になる。

お母さんは生きている。

そういう意味で、写真は死んでない。

梅佳代とかは、なんかPとWを感じさせるのがとっても上手なんだと思う。

生きてる写真なんだと思う。

だから、明るい、楽しい、嬉しい、とか、なんか、感情を。

はみ出すものがある。

そういう感じで、ieganaiの写真も面白がることができると思う。


  ●


もちろん、写真の不思議さ面白さは、もっと沢山の要素から成り立ってるんだろうなと。

幻想かもしれないけど。

どうなんだろうか。

フォトグラフ。

ときどきマンガ夜話

エレクトリックな気分のときに、ペダルを速くコグ。

加速気味な感傷に気づく自分かっこいい的刹那。


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箱の中にこもっている。

目の前にあるのはパソコンのディスプレイだな、これは。

とても規模の小さな箱のなかで、四角い囲みのなかを覗いている。

どういうことだろう。

食事すらうっとおしい。


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テレビが好きだ。

弱い感情のノイズをかき消す、乱暴な内容と下品で低俗なショー。

エレクトリックな銭湯の湯加減は上々で、ある。


  ●


よつばと」のマンガ夜話を見た。

いつもの3人が色々語っていた。

なんだか、いいたいことがはっきりしない。

10年後には面白いと思えるか?

という発言があった。何でか、腑に落ちるようで、よくわからない。

よつばとにはモノローグ(内面の記述)がなく、読者に委ねられている。

自分の小さかった頃の、より広い一般認識(いわゆる常識)を前提とした、読者参加型のマンガであり、そこがすごいよ!と興奮しているようでもあった。

雨が降ってはしゃぐよつば、無敵だ、というとーちゃん。

そこにある気持ちをまったく説明していないけれど、「いいなあ」という大多数の認識、少数だけど「せつないなあ」と感じる認識、どう取ろうが自由なのだ、と。

食い気味に前傾姿勢にさせるあざとさ、を自覚させながら、夢中にさせる。


  ●


あと、伊藤潤二の回も見た。

伊藤潤二の描く世界はホラーなのか、ギャグなのか、と延々。

アシスタントの女性はホラーが苦手なようで、オンエア前に伊藤潤二のマンガを読まなかった。だけど、彼女の発言が一番的確に怖いって何か、ホラーって何か、をずばり言い当てているような気がした。

伊藤潤二の描く脈絡の無い突飛な話の展開を前にして、彼女は怖いと感じる。

夏目房之介がストーリーの破綻があるからこそ、面白いと述べたあとで、読んでない彼女はこう言う。

「わたしは逆に、だから怖い、というイメージがあって。すごいストーリーがちゃんとあって、理屈が最初から最後まで通ってたら、わたしも理解できるんです。ホラー嫌いでも。ああ、なるほどな、って思うんですよ。(一同沸き立つ)でもね、なるほどなあとかって、さっきの、あのちょっと、これ(『富江』シリーズ)今日見てないんであれなんだけど。そうやって、こう、ちらっと言われたりとかしてるのを見ただけで、もう、戸棚のね、さっき見たけど。ああ、今日わたし家帰ったら戸棚見れないなー!ってそう思うわけですよ。」

ここで、深読みしている大人たちが、待ちきれん、とばかりに彼女の意見に対してわあっ!て関心するのが印象的。

彼女のいう戸棚とは、「富江・地下室」に出てくるワンシーンのことで、とても人が入れると思えない小さな戸棚から、富江の元担任の高木が出てくるところを指す。

読んでいる側からすると、いきなり彼がガラガラと戸棚を空けて、富江を燃やし出す。

なんなんだ、いきなり、というシーンである。

ここで、笑うか、怖がるか、線引きがされる。

彼女はこう続ける。

「だって、怖いときってね、暗くなるのが怖かったり、頭洗ってて目を開けるのが怖かったりするんですよ。そういうときって、ストーリーを最初から最後まで追ってるんじゃなくて、怖いシーンのイメージが浮かんできちゃうから。だから、(伊藤潤二のマンガは)見ないっていう。」

これを受けて、岡田斗司夫が「それ(怖いと感じる気持ち)どこに落として来ちゃったんだろう」と述べる。

怖がるのも一種の才能なのかもしれない。

死なないで

生きていく中で、死なないでと言われた。

「死なないで」と、言われた。

聞いたときはそこまで意識しなかった。

聞いた後、何日か経ってから、何週間か経ってから、

「「死なないで」と言われたのだ」と感じていることに気づいた。



    ●


私は生き急いでいるつもりはないし、むしろその逆である。

新しいことも最初の何回かの猛烈な感激の中に消えてしまうし、

あなたとの出会いも、静かな流れに小さな急流が吸い込まれるように、

ゆっくりと、確実に消失していってしまいました。

やりたくないことはやらないし、

やりたいことはやりたいからやる、

というはっきりした価値観の中に生きているようで、

実際は信念にあこがれている小人物に違いないのだ。


    ●


知らないことに対する解答や回答はいくつも用意されている。

欲求を満たす手段も、夜昼関係なく散らばっている。

ああ、それなのに。

「死なないで」と言われたのだなあ、と。

生きてください、と。

不在感。ここにはいないわたしを求めるあなたは。


    ●


心があって、入ってくる感情水路から、愛が流れてくるとして。

心の蔵に溜まりきらない。

わたしの、わたしの、「死なないで」に対する答え。

あわよくば正解を、注いであげたいと思ってるんだ。

些細なひとつの言葉が浸透して、わたしの体を覆いつくさんばかりだ。

オンラインに論文が登録されることの是非

James A. Evans. Electronic Publication and the Narrowing of Science and Scholarship. Science 18 July 2008: 395-399.

[概要の適当な拙訳]
オンラインジャーナルはより多くの情報を分散した聴衆に提供し、効果的に検索され集められている。しかし、オンラインジャーナルは印刷物とは違った使われ方をされている。科学者や学者は閲覧したり熟読するよりもネットで検索してハイパーリンクを辿る傾向がある。そのため、利用できる電子ジャーナルは科学にとって皮肉な変化の兆しとなるかもしれない。3400万の記事、それらの引用数(1945から2005)、およびオンライン利用(1998から2005)のデータベースを用いた結果、オンラインでくる雑誌の号が多いほど、記事の引用はより最近になり、雑誌や記事の引用は減少する傾向にあった。またそれらの引用が多いほど雑誌や記事は少なくなることが分かった。これまでは印刷物の保存記録を閲覧することにより、科学者や学者たちは過去そして現在の学問を深めていたのかもしれない。オンライン検索は非常に効果的であり、リンクにより研究者は素早く自分の主張を広げることができる。しかし、これによって合意が加速され、発見とアイデアが狭まることになるかもしれない。


    ●


これ面白いなー。論文はウェブ上に置いていく流れに掉さしてる。
否定してるわけじゃない。


ネットで検索できる論文の範囲って、ネットの場合90年代くらいまでのことが多い。
それよりも古い文献になると図書館とか司書さんとか、
いろいろめんどかったりして、まあ、最近のほうが新しいし良いか、ってなる。


けど科学的に正しいことって、時代の風化に耐えるものであるし、
言いだしっぺの科学者の文章が神がかってたりして、すごい勉強になったり。
って何となく思ってた、違和感みたいなのを、明文化してくれた感じ。


引用するための論文探しなんて、きっとナンセンスで。
究極的にはひとを啓発したり、新しい価値観、考え方、論法を与える知的財産として論文は存在して欲しいし、するべきだと思う。


    ●


コンテンツとかいわれてる感じなんだけど、きっと根本でそうじゃない。
紙は紙で、ディスプレイはディスプレイ。
指は指だし、マウスはマウス。
当たり前の物質としての違いをコンテンツとかいう薄っぺらい質感で覆ってしまう状況かもしれないなー。

なんなんだろーなー。この垣根。
上の問題はきっと過去へ過去へ遡って、もっともっと便利に利用できるんだろーし。
勉強の仕方、とか、資料の集め方、とか。
手法としてネットが取って代わるとかいう、パラダイムシフトとかやめて、方法としてのひとつが増えたという当然の視点でいこうかな、と思った。

使いやすいほうを、ひとそれぞれが、それぞれに、個人的に使っていったほうがうまく行く気がするなー。紙媒体しかだめ。ネットしかだめ。とかすぐ極論走るけど、濃淡のゲージが増えたことを喜びましょう。